信心のことば

衆生は本来仏なりと信じて拝んでゆきましょう。

衆生本来仏なり人はだれでも仏になる可能性を持っている、と信じて人に接してゆくことが大切であります。

明治の名僧といわれ、鎌倉の円覚寺・建長寺の両本山の管長をなさった釈宗演老師は(一九一九年寂)少年時代、京都の建仁寺の山内で修学しておられました。
ある夏の日師匠が外出されたのをよいことに、涼しい所を選んで昼寝をしようと企てた。
そのとき、師匠が忘れ物を取りに、寺へもどって来られました。ところが、この時宗演小僧は、師匠の居間に通ずる渡り廊下で横になっていた。気がついたとき、師匠はすでに身近に立っておられたのです。起き上ってあやまるタイミングを失い、しかたなくその場でたぬき寝入りをきめこみました。すると師匠は起こそうともせず、宗演小僧の足のあたりを合掌して、しかも「ごめんなされや!」と低声で、うそ寝の小僧にわびをいいながらまたがれました・・・。

宗演老師は、後になって当時を述懐されて次のようにいわれました。
「あのとき、わしは子どもながら全身が恥じらいと後悔の念でまっ赤になった。わしの狸寝入りを百も承知の上で、わしを叱りもせず手を合わして、逆に"ごめんなされや〃と詫びながら、わしの身体のすそをおまたぎになったのだ。もったいない恩師の慈悲である」と。
宗演老師は、また言葉をつづけて「わしらは、"衆生本来仏なり"と、白隠禅師の『坐禅和讃』を読んでいるが、図々しい小僧の狸寝に合掌できるだろうか。人間を教育するには、恩師の仏性観をよく学ばねばならぬ」と感概をこめて語られたといいます。 今こそ、こうした人間観に基づく教育法が必要なのではないでしょうか。

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